東洋医学
東洋医学の特徴
ここでは、西洋医学に対して中国大陸を中心に発展した医学を東洋医学ということにしましょう。
数万年来、定着農耕を主要な生活手段としてきた中国大陸の人達にとって、四季の変化が正常に運行するかは、切実な関心事でありました。四季の特徴は、作物に影響を与えるばかりだけでなく、あらゆる生命活動に関わってくるため、その働きを四気とし「気の思想」の原点が誕生しました。「気の思想」とは、宇宙の生成から生命現象にいたるまで、すべて「気」を根底において理解し、解釈しようとする考えです。中国ではこの思想が春秋時代末期(紀元前5世紀)から、老子や荘子によって主張され、「天人合一思想」とともに森羅万象を理解するための基礎的な思想となっています。ちなみに「天人合一思想」とは、人の形と機能とが、天地自然と相応しているとする思想のこと。さらに人体の内部の仕組みを、一つの小宇宙として考えて統一性をもたせています。
東洋医学の起源
中国における原始時代の医術は、他の文化圏と同様に、本能的な医術でありました。例えば「傷口をなめる」「痛いとこに手をあてる」「撫でる、さする」「薬になる食物を摂取する」などが自然と行われていました。しかし、中国の医術が他の文化圏と違っている点は、痛むところに石を使って治療したということでしょう。その後、部族社会が形成され、内部にシャーマン(宗教的職能者)などの呪術師による呪術的な医療が行われるようになりました。このことは殷代の甲骨文字からも推測されます。この呪術治療は「巫(ふ)」と呼ばれており、春秋・戦国時代になっても、際祀、祈祷、祝言などによって病因を除こうとする療法が盛んに行われたと伝えられています。
鍼灸、湯液、気功、導引の起源
鍼灸の起源は、石器時代の石によるもの、殷代の骨針などに遡れます。また湯液(漢方薬の煎じ薬)は伝説上の人物である神農が、草根木皮を集めてその性質を明らかにしたと伝えられていますが、多くの医療体験をもとにしてきたということが伺えます。気功や導引(マッサージ)は、気の思想が発展して、気を練磨する独自の方法として確立されてきました。
中国医学の系譜
東洋医学の発展
中国では、春秋戦国時代に、産業の進歩とあいまって経済、社会、政治、文化などが大きく発展しました。学術思想もこうした情勢のなかから、東洋医学の最古で体系的な医学書である「黄帝内経」の原型が生み出されました。「黄帝内経」は、当時の哲学の領域での鍼灸、湯液、導引、気功などに共通する独自の理論体系(陰陽、五行、気、天人合一思想、形神理論)を確立し、東洋医学発展の基礎を作り上げました。また「難経」は「黄帝内経」の難解な部分を解説する立場から、鍼による臨床実践の手引書として作成されました。また後漢末期の著名な医家である張仲景(紀元前150~219年)は、それらを多くの臨床体験と結合させて、湯液の分野で発展させ、「傷寒雑病論(傷寒論・金匱要略)」を著しました。これをもとに歴代の医家たちは、鍼灸、湯液などの医学理論を発展させてきたのです。
陰陽学説
陰陽は、日が当たるか当たらないかということから発生してきた考え方です。この考えですべての事象を観測していきました。易経にも「一陽一陰、之を道と謂う」とあり陰陽が根幹をなしているます。例えば男が陽で、女が陰。背中側が陽で、お腹側が陰。勢いがいいのを陽、動かないものを陰。自然界や宇宙をすべて陰陽で解釈できるようにしました。今でいうコンピュータの基本は「0」と「1」からできているのが不思議で仕方ありません。
陰陽学説では、世界の本質は気であり、陰陽の二気の対立と統一によるものであるとしました。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となす」がこの図に集約されています。
五行学説
五行的な考え方の起源は古く、殷(商)時代の宗教的観念にまでさかのぼります。当時の甲骨文に見られる四方の風(春、夏、秋、冬)の神の名から発生し、後代の清龍、白虎、朱雀、玄武という四神の名はこれから発想されたものと考えられています。広大な中国の風土を理解するためには、黄河を中心として、四方の地域の土の色や、生産物、気候などを、この四神や色、五つの代表的物質(木、火、土、金、水)とに結び付けて考えるとわかりやすいでしょう。こうして五行の考え方が発展して、五つの物質を、その中に働いている五種の気の有形化したものとしてとらえていきました。木は春と肝。火は夏と心。土は長夏と脾。金は秋と肺。水は冬と腎。このように相互関係を結び付けていって、最終的には以下の図のように医学的に応用されていきます。
気血水とは?
水血気という病理観は、わが国の漢方(古方医学)にも、中国(中医学)にもあります。 過不足なくその役割を果たすことにより生命を維持しています。 病気の原因を探る上で重要であると考えられてきました。